国・登録有形文化財の古民家紹介

登録有形文化財とは、文化庁が貴重な国民的財産として認めた建築物です。

平成8年に施行された文化財保護法改正にて創設された文化財登録制度により「国土の歴史的景観に寄与しているもの」「造形の規範となっているもの」「再現することが容易でないもの」等に該当する建造物、土木構造物及び工作物を登録有形文化財として登録、保存することになりました。 平成20年4月18日には、おきなわワールド「琉球王国城下町(旧民家群)」旧民家4棟とフール1基が、国の有形文化財登録原簿に登録されました。

有形文化財へ登録されたもの

旧喜屋武(きゃん)家住宅主屋

■建造年:明治後期
■移築前所在地:八重瀬町(旧具志頭村仲座)
■木造家屋:木造平屋建瓦葺
■建築面積:118.38m2(36坪)
■平成7年移築

< 旧喜屋武家の歴史 >
旧喜屋武家住宅主屋は、明治後期に建築された主屋である。 建築主は、旧具志頭議長、4代目村長を務めていた家柄であった。当該地区(南部)は、太平洋戦争の地上戦で最も激しかった場所でもあり、戦禍を逃れ奇跡的にも残った建物でもある。その証として、一番座、二番座前の廊下側の柱には、戦時中に受けた砲弾の傷跡が生々しく残っており、また、民家を移築する際には、庭から2個の大きな不発弾が出てくるなど、沖縄戦の歴史を語る大変貴重な建造物である。 移築後は、紅型染めの実演、販売、体験ができる紅型工房として使用されている。

旧 田場(たば)家住宅主屋

■建造年:明治後期
■移築前所在地:那覇市首里石嶺町
■木造家屋:木造平屋建 瓦葺
■建築面積:117.07m2(35坪)
■平成7年移築

 

< 旧田場家の歴史 >
旧田場家住宅主屋は、明治後期頃、那覇市内にあった御殿を取り壊した際に、その資材を購入し、その資材を用いて、那覇市首里石嶺町に建築された家屋である。 右側一番座に隣接して1間分の広い板間が取られていること、裏座がないことなど一般的な伝統的民家平面とは異なる間取りである。このことは、石嶺町に建築された当時の敷地形状や屋敷の配置、規模との関係が考えられる。また、田場家は、戦禍を逃れ残った建造物で、柱には、戦時中日本軍が使用していた当時の刀傷が今も残っている。戦後は、米軍が、軒の瓦を一部落とし、テントをはり使用していた。 建物内の柱には、化粧板張りをした無数のくぎ穴が残っている。 移築後は、王都首里を中心に多くあった紙漉の文化を伝えるため旧田場家を糸芭蕉、月桃等の沖縄素材を使った紙を生産し、体験等もできる紙すき工房として使用している。

旧 上里(うえざと)家住宅主屋

■建造年:昭和9年
■移築前所在地: 沖縄県伊是名村字伊是名
■木造家屋:木造平屋建 瓦葺
■建築面積:127m2(38坪)
■平成7年移築

< 旧上里家の歴史 >
旧上里家住宅主屋は、昭和9(1934)年頃に建築された主屋である。 間取りは、正面右から一番座、二番座、板間、土間の台所、裏には三室の裏座があり、裏座には、貴重品などを置く物置などが配置されている。沖縄の伝統的住居構成であり、周囲に雨端(あまはじ)が取られている。移築後は、各種体験講座、イベント、琉球挙式会場、ゆくい処(休憩所)として活用されている。

旧 伊礼(いれい)家住宅

■建造年:明治後期
■移築前所在地: 沖縄県伊是名村字伊是名
■木造家屋:木造平屋建 瓦葺
■建築面積:88.24m2(27坪)
■平成7年移築

< 旧伊礼家の歴史 >
旧伊礼家住宅主屋は、明治後期、沖縄県伊是名村字伊是名に建築された民家である。 伊礼家は、先代が伊是名村役場の助役を勤めたことに由来し、屋号(一族の呼称)を「ジョヤクヤー(助役ヤー)」と称す旧家である。 当時の屋敷石垣は、周囲をテーブルサンゴ石灰岩の野面積(のづらづみ)で囲み、その間に防風林としてフクギが植えられていた。 移築後は、琉球藍の染め工房として、実演や販売を行っており、体験もできる場所となっている。

旧 知念(ちねん)家住宅フール

■建造年: 明治30年頃
■移築前所在地: 南城市(旧玉城村字前川)
■木造家屋:琉球石灰岩 切石積み
■建築面積:15.95m2(4.8坪)
■平成8年移築

< 旧 知念(ちねん)家住宅フールの歴史 >
旧知念家屋敷内のフールの構造は、琉球石灰岩の石積みで、フール全体は2つに仕切られそれぞれが、切り石積みの側壁に石造アーチが架けられている。側面の仕切り壁の石積みも前面に向かってわずかに勾配が取られている。側壁の切石積み、アーチの加工などに典型的な沖縄石造技術が残されている。床は石敷きで、前方にトゥーシヌミー(東司の穴)があり、内側に向かって勾配が取られている。トゥーシヌミー前方にそれぞれ一枚石とチラカクシ(目隠し壁)があった。2つの仕切りは親豚、子豚と成長に応じて分けられ、石積みの隔壁は、子豚が移動できる程度の大きさの穴が開けられている。トゥーシヌミーから用を足すと豚がそれを処理した。一般的には汚物は溝に沿って外部に流され一端溜められて利用していたが、その痕跡がわずかに残っている。フール前の石柱は、昭和16年頃、イシバーヤ(石柱)を利用し木造の屋根を敷き、家畜の雨よけとして使われたと言われている。 大正6年(1917年)頃には、衛生上の問題で、警察署長の命令により、多くのフールが壊され、新規にフールを造ることも禁止された。その中で本フールは幸いにも保存されたものの一つである。禁止令が出る頃には、フールわきに汲み取り式の便所が設置され、フールは、豚小屋専用として使用された。

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